向こう見ずと苦労見ずって似てるよね

アイドルのお話をしましょう

【考察】秘密のトワレは『科学・実証主義の哀しい勝利宣言』だ

神様は糸杉の上に降りてきて、地上に臥している少女にこう言った。

「私はお母様の命令で、お前をみじめこの上もなく下らない人間の恋に縛りつけて、とても卑しい結婚をさせてあるはずだったのを、その代わりに自分で好きになって、お前のところへ飛んでってしまったのだ。思えば、我と我が身を自分の矢で傷つけてしまって、お前を自分の妻にしたのだ――」

本文:9,670 文字 予想読了時間:16-24分

 

 秘密のトワレという曲の歌詞をずっと問い続けている。

 それは私だけに限らないようで、ネットで検索をかけてみれば、この曲の歌詞を考察したブログやツイートはいくつか見つけることができる。リスト化してみよう。*1

 

tyokujou.hatenablog.com

paperview.hateblo.jp

 

You're my melody 一ノ瀬志希による「秘密のトワレ」をもっと聴こう

 

 一番目にあげた記事が私のお気に入りというか最も感銘を受けた考察で、ぜひ上のリンクから飛んで全文に目を通していただきたいのだけれど、内容を要約するなら「秘密のトワレは『音楽ミステリー』だ」というもの。その論拠が歌詞をなぞりながら丁寧に示されていく。*2

 

 すなわち、ミステリーは「事件」と「動機」から構成される「全容」と、事件そのものの意味や意義に直結する「真相」の2つから成り、秘密のトワレでは、1番が「事件」、2番が「動機」、Cメロが「真相」にあたる、という。私自身はミステリーには明るくはないのでミステリーに関する筆者の主張が正しいかどうかは分からないのだけれど、大変面白い発想だと思う。

 

 ただ、どうしてもその解釈では納得のいかない部分がある。特に2番のAメロだ。

 

《駆け引きも告白もcupidの戯れ あたしは時間を無駄にはしない主義なの》

《両方の羽を奪い鎖でつなぎたい 主の訪れだけを焦がれて待つの》

《あたしなしではもう渇望も癒えずに さぁさchemical showの幕があがる》

 

 はっきりいって、唐突さを覚える歌詞だ。現実世界に存在する言葉で構成されていた1番の歌詞とは異なり、やたらと抽象的というか文学的で、宗教的な表現さえもが前触れなしに導入されている。

 だがそれ自体は実は不自然でもなんでもない。科学者が皆、無神論者や反宗教主義者かといえば無論そんなことはなく、歴史的にはむしろ敬虔なキリスト教徒や神学者だったとされる科学者などは枚挙に暇がない。現代でもそれは変わらないだろう。

 

 地動説を唱えたコペルニクスがそうだ。『宇宙のランプ』たる太陽が中心に置かれていることこそが、神の御業が為された証明であり、惑星軌道の美しき整合は地動説によっても完璧に保たれる。

 天体の運行が楕円軌道によることを唱えたケプラーがそうだ。彼の目指したものもまた宇宙の調和論の完成であり、真円軌道を否定することによる神の世界の破壊などという誹りとは真逆を行くものだった。

 17世紀科学革命の中心にいた彼らの思想の根底にあったものは、万物の設計者たる至上の神が最高の知性をもって手ずから運営する無窮の調和世界であり、宇宙が奏でる美しき和声の天球音楽だった。その『神の法則』を導くことこそが彼らの使命だった。

 

宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である ―― A. アインシュタイン

 

 

 重ねて言うが、科学者が宗教的世界観を抱くことに不自然はない。私が違和感を覚えるのは、やはりその唐突さなのだ。

 2番の歌詞はミステリーでいうところの「犯人の動機」にあたるなら、その歌詞は犯行調書あるいは犯行日記に他ならないから、「あたし」の内情が吐露されるのは当然で観念的な歌詞にもなるものだろうけれど、果たして本当にそれだけだろうか。

 

 その答えはもしかすると、歌詞カードの《cupid》に振られたルビ『クピド』が教えてくれるかもしれない。

 cupidの読みは英語ならキューピッドだ。これはローマ神話の神『クピードー(クピド)』の英語読みで、あのメロディに乗せるなら確かに「キューピッド」よりも「クピド」と歌ったほうが収まりは良い。

 つまり「クピド」としたのは単なる作曲上の都合とも言えるけれど、他に隠れた意図があるとすると面白い考えが浮かび上がってくる。キューピッドではなくクピードーとしなければならなかった理由。

 

 ここでクピードー(キューピッド)について触れておこう。

 キューピッドと聞くと私は、白い羽を背中に付けて弓矢をつがえる男の子の姿を思い浮かべる。これはルネサンス絵画で描かれた姿が現代に伝わったもので、クピードー自体は青年神だ(美しい少年の姿とされることも多いが、男児ではない)。

 しかも、よく知られる男の子の姿をした天使は実は『プット』と呼ばれる存在であり、しばしばクピードーと混同されるが、その正体は旧約聖書における智天使『ヘルビム』だ。

 

 ただ、青年神クピードーの性格は私達が知るところの「いたずら好きの天使」とそう変わらない。

 ギリシア神話の神エロース(アモール)と同一視されるクピードーは、その手に弓と2種類の矢を携えている。金の矢に打たれた者は激しい情熱に身を焦がし、鉛の矢に打たれたものは恋をする心を失ってしまうという。

 エロースはこの弓矢を使って人や神々を打ち抜き、恋心を自由に操るといういたずらを楽しんでいた。このことから、恋人同士の突然の別れや一目惚れはクピードー(キューピッド)の仕業とされるようになった。

 

 ここまでがローマ神話あるいはギリシア神話で描かれる彼の姿なのだけれど、クピードーの物語で最も有名なものはローマのアプレイウスが著した教養小説『黄金の驢馬』の中で説かれる挿話『クピードーとプシュケーの物語』だとされている。

 内容の詳細はここでは省くが、前半部のあらすじは次のとおりだ。

 

プシューケー(プシュケ、プシケー、サイキ)という人間の娘がいた。彼女はある国の3人の王女のうちの末っ子で、最高美神ウェヌス(ヴィーナス、アプロディーテー)と並び称される絶世の美女だった。しかしその美貌ゆえにウェヌスの嫉妬と怒りを買い、ウェヌスは息子であるクピードーを呼び寄せると、少女を世界一卑しい人間との恋に落とさせるよう命ずる。忠実なクピードーはそれを実行しようとしたが、誤って金の矢で自らを傷つけてしまったことで、クピードー自身がプシューケーへの恋に目覚めてしまう。

一方、美しさのあまりに誰からも縁談を申し込まれなかったプシューケーは、人里離れた山麓で怪物と縁組をせよとのアポローンの宣託に従い、一人山を登る。ゼピュロスの風に導かれるがまま谷間へ降りると立派な宮殿があり、そこで出会った、姿は見えないが心優しい良人とプシューケーは結ばれる。良人は夜の間にだけ現れ、床に上がって愛を育むと朝日が登る前に急いで出かけていってしまう。

幸せながらもどこか寂しい結婚生活が長く続いた後、二人の姉がプシューケーを見舞いに来た。意地悪な姉たちは谷間の宮殿の壮麗さと豪華な暮らしぶりに嫉妬して奸計を企てる。良人が顔を見せないのはその正体がウワバミだからであり、プシューケーのお腹の中の赤子を取って食らうつもりなのだと姉たちは吹き込む。その日の晩、夜の営みを終えた良人が眠りにつくと、唆されたプシューケーは蛇の寝首をかくために起き上がり、燭台に火を点け剃刀を手にとる。しかし彼女の目に映ったのは、愛の神クピードーの愛らしくも神々しい寝姿であった。その美しさに目を奪われるプシューケー。次に、傍に置かれた武具を好奇心の向くまま吟味しようとして、誤って金の矢の鏃が指に突き刺さってしまう。

燃え盛る火のような情熱に動かされ、良人の身体に接吻を繰り返していると、それを真似るかのように、燭台から煮えた油がクピードーの肩に流れ落ちてしまう。激痛に飛び起きたクピードーは、妻が約束を破ったことを知るともの言わず窓の外に飛び発っていく。その足にプシューケーはしがみついていたが、やがて地面に落ちてしまう。クピードーは「愛と疑いは一緒にはいられないのだ」と告げプシューケーの下から飛び去る――。

 

 今一度、秘密のトワレの歌詞に目を通してほしい。2番の歌詞の別の姿が見えてこないだろうか。

 

《駆け引きも告白もcupidの戯れ あたしは時間を無駄にはしない主義なの》

《両方の羽を奪い鎖でつなぎたい 主の訪れだけを焦がれて待つの》

《あたしなしではもう渇望も癒えずに さぁさchemical showの幕があがる》

 

 「あたし」が束縛し拘束しようとする相手とは、もしかするとクピードーその人で、「あたし」はプシューケーのようにも見えてくる。

 「両方の羽を奪う」が「人間の両腕を拘束する」という比喩表現ではなく、「天使の羽を鎖で縛る」というそのままの意味だとしたら、歌詞の唐突さも頷ける。

 「あたしなしではもう渇望も癒えずに」は、クピードーが自らを金の矢で傷つけたことを意味しているのだろう。

 「主の訪れ」は、母であるウェヌスが助けにくることを指しているようにも読める。

 

 2番はクピードーとプシューケーの物語を下敷きにしている。そのためにキューピッドではなくクピドとルビをふったのだろう。

 ならば1番の歌詞も、ひいてはこの曲全体がその通りだと断じてもいいのだろうか。

 もちろん、答えはNOだ。1番の歌詞にクピードーとプシューケーの物語を思い起こさせる要素は存在しない。

 この物語は秘密のトワレの主題ではなく単なる題材であり、曲を構成する一要素でしかない。そもそも曲名が『秘密のトワレ』にはならない気がする。

 

 歌詞全体を綜合してみよう。ここまで来て、ようやく私の考察を始めることができる。

 

 すなわち、秘密のトワレは『科学・実証主義の哀しい勝利宣言』だ。

 

《バスタブに獣脂満たし裸でつかれば あたしをあたしたらしめるもの滴る》

《飽和したらアルコール 溶かして撹拌 残留物は恥辱的なほどあたし》

《my secret eau de toilette la la love potion 脳下垂体へ届け》

 

 「あたし」から抽出したフェロモンを香水に混ぜて媚薬として「君」に投与することで、まるで化学実験をするかのように相手を恋に落としたのだと広く解釈されている部分だ。

 作詞作曲を手掛けたササキトモコさんが書いたブログ(ごらトモ 一ノ瀬志希「秘密のトワレ」発売!)に書かれていることなので、信憑性はかなり高いように見える。

 また作曲の参考にした一冊としてジュースキントの「香水」という小説を紹介している。私もこの間手に入れて読んでみた。秘密のトワレの世界に直接的に関わっているわけではなさそうだが、小説として面白かったので興味のある方はぜひ読んでみてほしい*3

 調香師の主人公が、少女を殺めて身体を獣脂で包むことで香水を抽出するというおぞましい物語だ。

 

香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

香水―ある人殺しの物語 (文春文庫)

 

 

 1番や間奏部の歌詞には化学や生物の専門語が幾つも並び、「あたし」がそれらの分野に明るいことが伺える。

 高級語彙にまみれた歌詞はアイドルキャラクターソングとしては異色もいいところで、もちろん一ノ瀬志希自身がケミカルアイドルであるのを反映してのことだ。「君のハートに届け」ではなく「脳下垂体へ届け」と歌って怒られないアイドルは他に誰もいない。

 

 この1番の歌詞には、「科学的正しさ」を証明するために必要な「実証主義」に基づいた手続きがすべて含まれている。「科学的手法」と呼ばれるものだ。

 

 <仮説> = 恋は天使の矢ではなく生理的作用の結果である

 <理論> = フェロモンを投与するとジョビ器官よりフェニルエチルアミンが分泌される

 <実験> = フェロモンを抽出し香水に混ぜて対象に投与した

 <証拠> = 対象の瞳孔が開き情愛の兆候が観察されるようになった

 

 もちろん、この実験結果だけでは「定性的」の域にすら達してはいないが、「あたし」ならその気になればこの実験を何度も繰り返してより確固とした結論を導くことは容易にできるのだろう。

 ここで重要なのは、「あたし」は単に結果を得るだけでは満足しなかったということだ。ただ媚薬によって「君」を手に入れることに成功して良かったというだけなら、その結果だけを歌詞に書けばいい。実験手順や理論、「脳下垂体」も「ジョビ器官」も「フェニルエチルアミン」などという専門語も必要ない。自分の知識をひけらかしたいのでもなければ、の話だけれど。

 

 つまり、仮説が「科学的手法」で実証されたことを示す必要性が「あたし」にはあったということだ。

 

 

 ここですこしばかり、科学史について説明させてほしい。

 近代科学は17世紀に成立したのだという。それ以前にも「科学 scientia」なる語は存在していたが、それは「知識や経験」を意味する言葉だった。

 では17世紀以前は科学はなかったのかといえばそうではなく、たとえば最古の自然科学はイオニア地方のミトレスに源を発し紀元前6世紀頃にミトレス学派を形成した。その始祖であるタレスは「万物の根源は水だ」と唱えて、自然現象の合理的説明を初めて試みた人物として知られている。近代科学以前の科学は、「物事がなぜ起きるか」という問に答えを与えられすればそれで十分だった。

 

 高校化学の初めの方の授業で「四元素説」というのを聞いたことがあるかもしれない。万物は「火・水・土・空気」という4つの元素から構成されるというもので、2000年以上に渡って知識人たちに支持をされてきた。

 小学生でも物質が原子の集まりだと知っていてもおかしくないような現代人の視点からするとなんとも的外れに見えるけれど、そういう私たちだって、原子の存在を自らの手だけで証明できる人物は果たして何人いるだろうか。四元素説の反証を示すことができるのは何人だろうか。

 世界の成り立ちを説明するというだけなら、四元素説は十分体系付けられている。

 もし私の目の前にかつての賢人が現れたとして、本やインターネットの助け無しで、彼らの「科学理論」を言い負かすことができる気が私にはしない。私の語る「原子説」のあやふやな知識は、賢人の目には神を貶める盲人の戯言のように聞こえるだろう。

 だが、それでもやはり四元素説その真偽や信憑性に関わらず、「近代科学」に基づいて実証されていないという点において科学的仮説ではないのだ。物事を説明する道具でしかないという点では、各地の神話も近代科学以前の科学もそう隔たりはない。

 

あなたがたの神である主を試してはならない - 申命記 第6章16説

 

 恋は天使の矢に刺されることで始まる。

 今ではおとぎ話でしかないようなこの話もかつては真剣に語られていたし、それで困るようなことも何もなかった。

 現代の私たちだって、脳科学者や神経学者でもないかぎり、この話を信じたところで夢見がちだと人に思われる以上の実際的な不都合はないし、「恋というのはジョビ器官がフェニルエチルアミンを……」などと真顔で語る人間よりもよほど印象は良い。

 

 だけれど、「彼女」にとってはそうはいかなかったのだ。神を試さずにはいられなかった。

 それは「彼女」が天才だったからというだけではない。二十世紀最大の「天才」物理学者アインシュタインですら、神の存在を確信し厚く信仰していた。そのために何度か理論的間違いを犯したことさえある(宇宙定数、隠れた変数理論)。

 「彼女」がそうせざるを得なかった理由や真相は語られてはいないから想像に委ねるほかはないけれど、シンデレラガールズ世界で現実に存在する一ノ瀬志希という人間と全く無関係ということはないのだろう。

 

 2番の歌詞を再解釈しよう。

 

《両方の羽を奪い鎖でつなぎたい 主の訪れだけを焦がれて待つの》

 

 目的語がないけれど、この歌詞には「君」の自由を奪いたいという意味がある。そしてクピードーの天使の羽を拘束したいという意味がある。

 「あたし」は「科学的手法」で恋の作用機序を実証することで、人間の心理作用を「天使の戯れ」という神話的表現に求めようとする人間(「君」や第三者かもしれないし、「あたし」自身かもしれない)の顔面へ科学主義を突きつけて、天使とやらを実証主義的立場で引きずり降ろそうとしている。

 

《君をたぶらかす香りに投与して さぁさmagical showの幕があがる》

《あたしなしではもう渇望も癒えずに さぁさchemical showの幕があがる》

 

 「あたしなしではもう渇望も癒えずに」はやはりクピードーの物語をなぞっているのだろう。もちろん、秘密のトワレの世界の中で実際に起きていることは、読んで字の如くだ。

 「脳下垂体」も「ジョビ器官」も「フェニルエチルアミン」もすべて「恋は天使の矢から始まる」のを科学実証主義的に否定するために必要な言葉だと言った。それは普通の人の目には「magical show」に見えるけれどその実「chemical show」に他ならない。

 1番の方がよほど科学的な言葉が並んでいるのに「magical show」と言い、2番の文学的・宗教的な表現を「chemical show」と言っている理由だ。

 

《両方の羽を奪い鎖でつなぎたい 主の訪れだけを焦がれて待つの》

 

 先にも述べたように「主の訪れ」はクピードーの母であるウェヌスの救援、ととれもなくもないけれど、日本人らしくもっとカジュアルな宗教観に依拠して考えると、もしかすると広い意味での「主」を意味しているのかもしれない。つまりここで意識してるのはギリシャ神話でもなくローマ神話でもなく、キリスト再臨のような話ということだ。

 言い換えればこの「主の訪れ」は、「あたし」によって壊された旧来の神話的世界観の復活(復旧)を指していて、これはCメロの「清浄なる世界」ともそっくりそのまま当てはまる。

 

《清浄なる世界で君とこうなりたかった あぁもう戻れない ごめんね》

 

 「もう戻れない」のは「あたし」と「君」の関係でもあるし、神話のベールを剥がされて神の加護などない科学原理主義的価値観に放り出された世界のことでもある。

 

 

 

 以上の説明を経ても、疑問は未だに残る。

 

 どうして「あたし」は科学主義で神話を破壊するようなことをしたのだろう。そして、どうして歌詞の最後に「あたし」は「ごめんね」と謝ったのだろう(「ごめんね」以降はサビの繰り返し)。

 謝る相手は、強引な手段で心を奪った「君」にだろうか。それも間違いではないはずだ。やはりササキトモコさんのブログが参考になる。

 

そんな彼女ですが、好きな男の子を自分に向かせたい、という気持ちは少女。

もっと普通の方法でこうなりたかったな、ってちょっと後悔するところも少女。

 

きっと相手は、受け身男子、というやつで、

いくら待っていても、一歩を踏み込んでくれなかったのでしょう。

時を無駄にしたくない彼女は、化学で解決してしまった。

そんな、ちょっともの悲しくて自己中な恋愛。

 

 ただ、ここでは作曲者の解説を超えて、さらにもう少し踏み込んでみたい。

 「ごめんね」の相手は「あたし」自身なのだと。そして「あたし」は本心では「天使の矢で始まる恋」を期待していたのだと。

 

 ササキトモコさんのブログの記事では、この曲のキーワードとして「香り」「セクシー」「ギフテッド」「二面性」がオーダーされたと書かれている。

 いずれも一ノ瀬志希を構成する重要なキーワードと思って間違いないのだけれど、このうちの「二面性」は実は私にとってはすこし意外だった。意識すれば見えてくるキーワードではあるけれど、他の3つに比べると見えやすくはアピールされていない。本人の口から語られたこともないし、周囲のアイドルから指摘されたことも(おそらく)ない。*4

 

 一ノ瀬志希の「二面性」とはすなわち「神様に知性を贈られたギフテッドの合理主義者」「父を探しに海さえ渡ってしまう歳相応の普通の女の子」表裏一体で同居しているということだと思う。

 一ノ瀬志希の「ミステリアス」「セクシー」「デンジャラス」「ケミカルアイドル」とされる側面はすべて表の方に集中して偏っていて、裏側は普段はとても見えづらい。

 だけれど、一ノ瀬志希の胸の奥には同じ質量で2つは存在している。もしかすると、意思決定の優先度は「普通の女の子」の方が上ですらあるかもしれない。

 

 「彼女」も同じだったのだろう。

 自ら媚薬を作り出す化学の天才は、好きな人に恋い焦がれる普通の「女の子」でもあった。

 表の「彼女」とは違って裏に潜む「女の子」は、自分の恋心が脳内ホルモンの分泌によるものだと思いたくはなかった。

 「彼女」は信仰する科学主義を確かなものとするために、「女の子」はお伽噺のような恋の始まりを信じ続けるために、共謀して「事件」を起こした。

 もし媚薬では恋心を引き起こせないのだとすれば「女の子」は自分の恋を信じ続けることができる。

 その大きな賭けに「女の子」は負けたのだった。天使の矢がなくとも「君」は恋に落ちてしまったのだった。

 

 「彼女」は実験の成功にほくそ笑みながら、心の中で涙を流して自分に言うのだろう。「ごめんね」と。

 そして「彼女」もまた気づかないふりをしている。誰かを恋に落とすフェロモンなど、人の体から抽出できはしないということに。

 「彼女」は機嫌良さげに鼻歌を響かせ続ける。

 

《my secret eau de toilette….》

 

 「君」に隠した秘密の恋心。それこそが「トワレ」なのだと自分に言い聞かせ続ける。

 

良人は少女をやさしく抱きながら、脅かしつつ戒めた。

「ではもう好きなようにしなさい。災禍を求める自分の心に従うがいい。ただ、姉たちのよこしまな勧めにそそのかされて、決して私の貌を見ようとしてはならない。さもないと、そんな慎みのない好奇心から、これほども大きな幸福の絶頂から奈落の底へと落っこちてしまうばかりか、私に逢うこともかなわなくなるのだから――」

 

 

補足

 歌詞カードを見てみると、1番のサビと最後のサビで「君には きっと狂気の沙汰」の空白の大きさが違うという指摘がある。そこに意味を見出して考察している人もいて、例えば最初に挙げたリストの1番目の記事では二つの「君」が違う人物を刺しているんじゃないか、と記述している。

 

 このことをCDを発売しているコロムビアさんに問い合わせてみたところ「ブックレットのデザイン上で、特に意味意図等は無い」との返事をいただいた。ちょっと残念。

 

 

参考資料

29.黄金の驢馬(第二回:グピードーとプシューケーの物語)

http://www015.upp.so-net.ne.jp/h-hayashi/D-29.pdf

 

クピド - 愛の研究

http://la-piazza.com/piazza5/cupido/index.html

 

世界の奇書をゆっくり解説 番外編 「天体の回転について」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm30367179

*1:なぜ考察が大事なのかというと、3番目の記事の方も仰っているように、デレマスのCDは自己紹介的な意味合いが強いからです。つまり、秘密のトワレの「あたし」←やばいやつ と「一ノ瀬志希」←やばいやつ が間違いなく別人だなんてとても言い切れないのです。

*2:*元の記事では「歌でミステリーをやった歌」と表現しています。

*3:映画版も悪くなかったけど、妙にギャグっぽくなっちゃうのがちょっとね。

*4:飛鳥ちゃんが良い線いってたような気も?